2011-02-25 第177回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第1号
そこに肖像画がある中村梅吉先生も、衆議院議長の後、法務大臣になられたわけですが、参議院では江田先生が初めての例になります。 これは並々ならぬ御決意で入閣されたんだと思いますが、一方、参議院の権威また三権分立の原則からいって好ましくないのではないかというような批判も一部にあります。
そこに肖像画がある中村梅吉先生も、衆議院議長の後、法務大臣になられたわけですが、参議院では江田先生が初めての例になります。 これは並々ならぬ御決意で入閣されたんだと思いますが、一方、参議院の権威また三権分立の原則からいって好ましくないのではないかというような批判も一部にあります。
そのときの大臣が中村梅吉先生でございました。中村梅吉先生は昭和三十六年度から始まる道路整備計画二兆一千億の有名な五カ年計画でございましたが、それを発足せしめるに当たって共同溝というものに重点を置けと、すべて共同溝に埋めるようにしなさい、そうすれば下水道にも使えるし電信電話、ガス、水道すべてに使えるということを熱っぽくおっしゃいました。ところが、結局当時の役人はそれを聞かなかったんです。
○弥富事務総長 まず最初に、元議長故中村梅吉先生に対する弔詞贈呈の件につきまして、議長から報告がございまして、弔詞を朗読されることになります。 次に、議長発議で、戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案の参議院回付案を緊急上程いたします。共産党が反対でございます。
そして、あのときに日中関係のために田中内閣を支持しよう、田中内閣を出現させよう、そう考えまして、櫻内代議士、大石武一代議士あるいは野田武夫先生や中村梅吉先生等とは、かなり早い時期から首脳部の間で相談をしておったのでございます。そして、いよいよ七月の改選の時期になりまして、私たちの同志は打って一丸となって田中政権を実現させたのです。
私や中村梅吉先生や櫻内あるいは稻葉、そういう代議士の皆さんがたしかお会いしたと記憶しています。そのときに政治行動は政治家が決める、だれを総裁にするかということは天下の大事であって、それは財界人がくちばしをはさむようなことではない、それは私たちに任してもらいたい、そう言って拒絶したのです。それから冷戦状態になりまして、資金の援助も断られました。
それでいよいよ四十七年になって、佐藤先生がお引きになりましたときに、次の総裁選問題が出てまいりましたが、私はたしか四十七年の春のころに、中村梅吉先生や櫻内、稻葉、大石、それから野田先生等とも相談をして、日中国交回復をやろう、やらなければいかぬ、そういう話し合いをもうすでにしておったのであります。
われわれ幹部というのは、櫻内、大石、中村梅吉先生、野田先生、稻葉先生で、こういう間ではよく討議しておったわけです。 あのころは、福田さんの方はアヒルの水かきということをやっておりましたけれども、周恩来の方から手紙を拒否されたりして、福田さんではとてもむずかしい、そういう世論でありました。そして、田中さんならやれる、そういうのがまた世論でもあった。
私はそのころ改進党を代表してこの法案をつくった一人でありまして、いまの西村直己君が自由党であって、中村梅吉先生が日本自由党で、改進党から私が出まして案文をつくったので、マッカーサーなんかから借りた思想ではありません。やはり日本の将来の社会構造やそういう変化を予想いたしまして、こういう文章を入れておいたわけでございます。
あれは三党の政策協定でつくったのでありまして、私は改進党を代表して、それから自由党からは西村直己君が、当時の日本自由党から中村梅吉先生が出てきて、そのほかの諸君と一緒につくった。そのつくった趣旨も、陸海軍がけんかをいたしまして、そして軍政と軍令が分離したり、軍事と政治がばらばらになったのが大東亜戦争の悲劇でもあります。
幸い法務大臣中村梅吉先生は、お人柄から申しましても、私ども常日ごろ非常に尊敬しておる方でありますので、せっかく大臣におなりになった機会に——もちろんこれが一気に解決するとは申しませんけれども、少くとも看守の諸君が喜んで働けるように、優遇と申しますか——中には非常にけしからぬものもありましょうけれども、いろいろな社会環境から心ならずもそういった生活を余儀なくされる諸君に対し、いわゆる人間的な取扱い——